鬼ヶ島の鬼伽姫
―紅鬼編―


#4 あれから2日経ったんだけど


万千児は悩んでいた。例の事件のあと、彼の帰宅までの記憶はふしぎと途絶えていた。気がつくと家の玄関で寝ていた彼は、深夜に家のドアを開くなり、彼の帰宅を待ってそわそわしていた両親にはげしく怒鳴りつけられた。
――千児! あんた、一体どこで夜遊びしてきたの、この馬鹿息子!
――こいつー、まったく心配させやがってぇ。ほら、何をぽけーっとしてる。心配してた母さんに、申し訳の一言でも言ったらどうだ!
しかし、彼はそれどころではなかった。断片のような記憶が蘇りはじめると、ふたたび沸き起こった興奮と恐怖で、彼は大いに取り乱した。
――あああ、父ちゃん、母ちゃん、おれ、おれ、大変なことになっちったよ
その言葉に、両親は冷や汗たらたら、事情を訊いた。
――ど、どうした? おまえ、まさか何かやらかしたのか?
千児は青い顔で頭を抱えながら、震える唇で意味不明のことを口走った。
――そ、それがもう、ひどいんだよ。聞いてくれよ。おれ、おっかない女の子に食われそうになって……いや、実際たぶん食われちゃって……でよ、たしかイケメンのケツが……あれ、ケツがどうしだんだっけ? あのケツがどうしたんだっけ?! うあああ!

両親はただ事ではない何かを感じ、千児をソファに座らせた。

――と、とにかく落ち着きなさい
――あ、ほら、お水飲んで、お水……
千児は怯えのあまり卑屈げな笑みを浮かべていた。徐々に回復してくる記憶を頼りに、彼はまっさきに言わなければならないことをぽつりとつぶやいた。
――そうだよ、おれ、何かすっごい変な企業に就職が決まっちゃったみたいで……そんで……
――もういい。おまえはきっと、悪い夢を見たんだ
父親は息子の肩に手を置いた。千児ははっとした。
――そうだ、鬼伽姫! 鬼伽姫だ! あいつ、名前忘れられるの嫌いなんだって。忘れたら、あとが怖ぇんだ。……たしかあいつが家まで送ってくれて……
――だから、もういい。明日病院で精密検査を受けよう。な。な
――ああ、そんでよう、あいつに抱えられたら最後、それはもう速ェ速ェ。とんでとんで、たくさんの屋根がみるみる遠ざかってってェ! おれ、目ェ回してよう……
――うんうん、わかったから落ち着きなさい。父さんがついてるぞ。おまえはきっと事故に遭って混乱しているんだ
――思えばおれ、あれが初めてのお姫様だっこでよゥ!
――もうわかった。おい母さん、救急車呼んでくれ


そして、一晩が過ぎ、二晩が過ぎていった。尻餅をついたり、キャットウォークから落ちたりした際の打撲があったことから、ちょっとした交通事故とそれによる錯乱として、一連のことは片付けられた。何事もなく日常は再開した。彼は今、学校の昼休みに、屋上で一人空を見ていた。隙山大平と待ち合わせをしているところである。もう鬼のことや妖怪ラブホのことなど、遠い夢のことのように思える。……しかし。

――君たち二人は、明日からこの『モーテル鬼ヶ島』に就職してもらう!

ふとしたはずみで、紅鬼の声が、悪夢のように蘇ってくる。

――忘れるなよ、ヨロズの嫡男。おまえはもう我が社の従業員なのだ
――やだよ!

千児はそう即答したはずだった。妖怪モーテルなんかで働いて、一体どんな目に合わされるかわからない。ましてブラック企業というものが取り沙汰されている現在、就職というものは口コミを含めた内部情報を集めるところから慎重に行いたいものである。

「あ、先輩」
隙山大平がやってくるのに気づいた千児の心には、この人気のない屋上で、男二人で悪だくみをするいつもの楽しい気分が少しばかり心に蘇っていた。が、大平の顔がいつになくげっそりとしているのに気づいた千児は、不審に思った。他愛ない話をそれとなくふっかけそうとしてみたが、大平は心ここにあらずといった様子で、ろくに返事もしなかった。まして、二人のあいだには恐怖の妖怪ラブホの話はもうしないという暗黙の同意があった。

千児は相手が話を切り出すのを待つことを選び、沈黙した。
空ではカラスが鳴いている。深く青い空が爽やかだ。大平は哀愁を含んだ目でちらと空を眺めてから、千児の顔の方を向いて、やっと力なくこう言った。
「なあ千児、人はなぜ隠しごとをするんだろうな……」
「隠したいからじゃないすか?」
「隠したところでバレるんだ。それはわかってることなんだ。なのに、人はなぜそうとわかっていて、こんな非合理的なことをしてまで、自分で自分を傷つけるのかって話だよ」
千児は返事に困った。隠しごと。その言葉を聞いて彼が真っ先に考えたのは、人間に隠れて奇妙なモーテルを経営していた、鬼の親子のことである。あれから何の連絡もない。しかし、あのホテルは人間を騙しながら、今日の放課後も開かれるのかもしれない。
「やばいことになった」
と大平。千児はそのことだと確信し、とっさに首をぶんぶんと縦に振って、タブーであったあの話をおそるおそる振った。
「ホントだよねェ、先輩。あのさ、すごーく言いにくいんだけど、もしかして今日が『鬼ヶ島』の営業日なんかもしれないと思うと、おれだって、もう気味悪くって。もしそうだったら、おれたちはついに、あの妖怪ホテルに従業員デビューしちまう。いったいどんな目に合うんだか……」

「ちがう」
と大平は頭を抱えた。
「そんなことじゃねえ……」
大平の、鼻にかかった弱々しい語気は、何だか泣きを誘うものがあった。
「もっと実際的な話だよ。いつかこんな日が来るんじゃねえか、と思っていた。覚悟はできてると思ってた。けれどな、千児。おれもやっぱりただの人だったのよ。みすみす罰がくるのをただ待たなきゃならねえとなれば、もう膝の震えが止まらねえのよ……。男前の俺だってな、怖いときは、ただ怖いと言って泣きてぇんだ……」
話が呑み込めず、千児は目をぱちくりした。
「あれ先輩、何の話ッスか?」
「おまえ、知ってるよな、俺の商売」
「ショーバイ? え、それってあの、エロ本転売のことじゃ……」
「おうよ」
「ば、バレたんですか?」
大平は苦々しそうに頭を振りつつ、言った。
「なくなっていた。今は誰も使ってないはずの旧更衣室のロッカー。そこに入れておいた在庫のすべてが、ごっそりなくなっていた。千児、俺たちは、ちいと悪ノリし過ぎたのかもしれん。俺たちをよく思っていない誰かが、チクったのにちがいない」

その時、屋上へ通じる唯一の階段から、涼しい声が響いた。
「その通りだ、君たち」
階段から現れたのは、眼鏡をかけた少年、級友の袋小路譲であった。
「あんな下劣なものを学校に持ってくるなんて、感心しないからね。それに気がついた以上、報告しなければならない。僕は放っておけなかったんだ。先生方も、それを売りさばいていた犯人にとても立腹していらっしゃる」
シャツは第一ボタンまできちんと留めており、身の丈ぴったりの制服をまっすぐな背筋で着こなしている彼。大平や千児と同じ制服を着ているとはとても思えない。第三ボタンまで襟を開き、ズボンをダボつかせているなんちゃってヤンキーにとっては、何より面倒くさい存在だ。千児は先ほど鬼の話をちらとしてしまっていたことを思い出し、大いに焦った。
「い、一体いつから聞いてやがったんだ、袋小路! 盗み聞きたぁ、悪趣味なやつめ!」
「今来たところだよ。僕は盗み聞きなどという品のないことはしない」
千児は色々言いたかったが、相手は頭の切れる優等生で通っている。下手に論破されると格好がつかないので、ここは小物らしく大平の肩を叩いてけしかけることを選択した。
「くっそぅ、先輩、何か言ってやってくださいよ」
「……やあ袋小路、屋上に何か用かい」
大平は抑揚のない声で問うた。ダメだ。そう千児は思った。先輩はもう、見るからにダメな感じになっている。そう思った。処罰の不安は今や確信に変わり、隙山大平の面差しはもう完全に死んでいた。狼狽は今、静かな絶望を経由して、無気力と無感動の境地にたどり着こうとしていたのである。袋小路は固い表情を崩さぬまま、眼鏡を光らせて答えた。
「昼休みが終った頃、僕は君たち二人を探しているという女の子に会った。いつもの習慣から、たぶん屋上にいるのではないか、と僕は答えた。それで、生徒会の用事が思ったより早く終ったものだから、彼女がちゃんと君たちに会えたのか確かめに来たんだ」
簡潔で、しかも疑わしいところのない答えであった。

千児と大平は少しばかり元気になり、ひそひそと耳打ちし合った。
「女の子だとよ」
「だとよ」
「おれたちに会いたいんだってよ」
「だってよ」
胸をときめかせたのも束の間、千児ははっと思い当たった。
「ちょっと待て。それってまさか……」

その時だ。
ドン! 突然校舎が揺れた。
そして、静まった。三人はとっさに突っ伏していた。それほどの衝撃だった。

千児はビクビクしながら、首を起こして辺りを見回した。倒れた拍子に少年3人もつれ合っていた。千児ははじめ、あの鬼の娘が来たのかと思った。しかし、それにしては後が静かだった。では、例のテロル攻撃を仕掛けてくるという蒼鬼というやつだろうか。それを思うと、千児の膀胱はきゅっと縮み上がった。
「君、どいてくれないか」
と袋小路。千児に押し倒された格好であった。
「しばし待ってくれや、優等生。おれは今、足がすくんで動けねえ」
と千児。さらに、ぶるぶると震える手で袋小路の肩をつかみ、
「もう少し、こうさせてくれ」
などと気持ちの悪いことをいうので、袋小路はのけぞって相手の顔を遠ざけた。さらにその下敷きになっていた大平が、二人をぐいとはねのけて、喚いた。
「ど、ど、ど、どうした、妖怪か?!」
そして、思い立ったようにすっくと立ち上がり、言った。
「逃げるぞ、野郎ども!」
屋上の倉庫までダッと駆けると、そのドアを開け、何やら品のない書籍をかき出しかき出し、こちらを振り向きもせずに喚いた。
「ほらおめえらもボサッとしてねえで、早く逃げた方がいいぞ。俺も残りのコレクションをまとめたら、すぐに逃げる! どこまでも逃げてやる!」
そのあまりの大げさな調子に、千児は感づいた。先輩だってもう、妖怪はこりごりなのであるし、そして今、高校にいる理由もなくなってしまったと彼は思っている。そう、大平はもはや帰らぬつもりなのだ。この風紀に厳しいくせに夜は何やらいかがわしいオカルト娯楽産業と組んでいるハイスクールから一刻も早く立ち去って、新しい人生を歩むつもりなのだ。

「ちょっと待ってよ、先輩。まだ例の本の売り手が先輩ってバレたわけじゃ……」
「いいや、じきにバレるね!」
大平は本を取り落とし、また頭を抱えた。
「なあ千児、人はなぜ、自分の名前を呼んでもらうと、嬉しいんだろうか!」
「ま、まさか」
「おうよ、決まってんだろ」
倉庫からとてつもない量の書籍をよいしょよいしょと運び出しつつ、大平は演説した。
「いいか、千児。いいか、袋小路さんよ。どんなすてきなものも、慣れってのがそのありがたみを大層損なうもんだぜ。よいしょ。でも、そんなの寂しいじゃないか。宝物にはいつまでもきらきらしていてほしいじゃないか。そこで俺は考えたのよ。どっこいしょ」
今、大平の目は悟っていた。そして、きらきらとしていた。さながら、戦後事業のサクセスストーリーを描いたドキュメント番組において、泥臭く温かな時代を再現したドラマの合間を縫って時折現れる、老成した現代の偉人その人が昔を懐かしんでいる一場面のようでもあった。大平は今、無感動・無気力の深い闇を越えて、悟りと輪廻転生の明るみへと漕ぎ出しつつあった。彼はなおも語る。

「ここに一枚の美女の写真があったとしよう。どっこいしょ。そして俺は、その写真に非常に慣れ親しんでいたためにいよいよ飽きつつあったとしよう。よいしょ。しかし、だ。かわりばえしない妖艶な笑みを浮かべる彼女の横に小さな吹き出しを書き加え、一たび『大平くん、好きよっ』と書き添えてみるとどうだ?」
大平はここで荷物のうちの一冊を手に持って、瞳をうるませた。
「その画像はたちまち俺にとって親密な……なにか放ってはおけないオーラを放ち始めるじゃねえか。たったそれだけのひと手間で、何だか……胸がわくわくするような……新しい輝きに……満ちてゆくじゃねえか」
「せ、先輩……!」
千児は冷や汗をかいた。先輩は狂った。そう思った。
「先輩……。っていうか、それ、どうなんすか! な、袋小路も何か言えよ」
「わからないな」
と袋小路。あごに手を当て、考え考え、彼は反論した。
「果たして小手先の細工がそんなに良いものだろうか」
「良い。想像力が広がる」

「そうだろうか。君は想像力というけれど、固有名詞などを書き入れることで、解釈のバリエーションが損なわれると僕は思う。おっほん。ここで僕が解釈のバリエーションというのは、写真を前にして脳内で再生することが可能な、妄想のカセットテープ、すなわちパッケージ化された僕たちのシナリオの数々のことだ。その多さを前にしながら、写真の方のシナリオ許容力が貧弱になることをぼくは懸念しているのだ。そうなりでもしたら、僕は悲しい」
「……」
「だって、再生できるカセットは、多ければ多いほどいいのだから!」
「バカ! いいか、ようく聞け」
と大平。自分の振った下ネタが3人の話題の中心となった今、彼は水を得た魚のように元気いっぱい、引き締まった男前を希望にほてらせながら、縦横無尽に語った。興に乗った彼の話は、長い。しかし、巧みだ。だが、袋小路譲もわからず屋だ。一歩も譲らない。千児はというと、今度は大平のかわりに臆病虫に取り付かれ、屋上にエサを求めて異様に接近して来たカラス一匹にさえ驚き、果たして相手が妖怪か否かを見きわめようと、小さくなって身を伏せていた。そのあいだも二人の論争は激化し、袋小路はついに呻くように言い放った。
「いやだ。やっぱり僕はいやだね。大事な写真をインクで汚すなんて。そんなのは所詮、カセットの少ない人間のすることじゃないか。しかし、僕は違う!」
「ちくしょう。じゃ、これを見やがれ」
百聞は一見にしかず。そう判断した隙山大平は、倉庫に山積みにされている本の中から、一冊のヌード写真集を抜き取ると、適当なページを開き、胸ポケットの水性ペンで、そこにきゅっきゅと吹き出しを作り、身も蓋もない台詞を書き込んだ。曰く。

――ユズル、とっても愛してる。ユズルは私だけのものよ

「これは……」
袋小路譲は、それをしばし眺め、そっと眼鏡をかけ直す。そして、薄い唇からゆっくりと息を吐いて、感嘆の言葉を漏らした。
「素晴らしい。なるほど僕が間違っていた。何だかすごく、愛されているという感じがする。この世界にひとつだけの僕という感じがする。君の言うことは、まったく正しかった……」
ついに優等生が頭を下げたので、大平はさらに得意になって説教を始めた。雲間から覗いた太陽が、彼に光を投げかける。隙山大平は、今こそ最も純粋に、隙山大平であった。
「なあ、譲。人間、知識だけがすべてじゃねえんだ。ユーモアのセンスを忘れちゃいけねえや。それはつまり、自分を幸せにするための小さなひと工夫ってやつだ。そのひと工夫で、長い人生を楽しくやり過ごせるかどうかが決まるんだぜ。これ、オヤジの名言」
「しかし、皮肉なものだと僕は思うよ。そのひと工夫を怠らなかったために、君は今破滅しようとしている」
「誰のせいだ、コンチクショーめ! ぐふっ」

突然、大平が変な声を漏らしたかと思うと、つづいてドスドスとコンクリートと打つ音が響いた。万千児はカラスを観察するのをやめてそちらを振り向いて驚いた。書籍は崩れ、雪崩のごとく崩れ、隙山大平の腰をしたたかに痛打した。横転した大平は、なおもずるずると押し寄せる肌色・桃色・極彩色の表紙の書籍に半身を埋めていた。男前の額にしわを寄せ、腰骨の辺りをせわしなくさすりながら、細い声で千児を呼ぶさまは、見るものの哀感を誘った。
「千……児……」
「せ、先輩! こ、こんな……こんなことってあるんスか」
「お、おれはもう……駄目かも知れん。こ、この間痛めた臀筋がまた……」
「せ、先輩、死んじゃだめだ!」
「し、死なねえよ。ぐーっ、しかし、今回は腰の上の方の筋まで痛みやがる……重症だぜ、これは……。くっそ、せっかくケンコーになったばかりの、俺の尻がよう……」
そして、こんな時にも袋小路譲は冷静だった
「万くん! 今すぐ一緒に保健室に先生を呼びに行くべきだ」
そう言って駆け出そうとする彼の足を掴み、大平はしわがれた声で制止した。
「だ、だめだ、今ここで救出されちゃ、俺のコレクションが……」
「しかし!」
冷静なはずの袋小路の眼鏡の奥に、じんわりと熱い涙が滲んだ。
「しかし、君を見捨てられない! せっかく、友達になれたのに!」

その時だ。ドン! また強い衝撃が校舎を襲った。
「じ、地震か!」
千児と袋小路が思わず手を握った次の瞬間、隕石のような何かが爆炎とともに屋上に墜落した。いや。それは人。コンクリート片の砂塵が晴れる中、それが人の形をしていたことに千児は驚愕した。赤い肌。角のある額。
「グルルッ」
と吠えてそれは跳ね起きると、体にまとわる炎を乱暴に腕でかき払い、荒ぶる髪をさらに逆立て、両手の爪を宙に立てて天を威嚇した。足振り上げて地面を蹴ると、5・6mほど跳躍し、着地。見えざる敵との間合いを取る。その風圧で髪がピンと伸び、こちらを振り向いたその顔は人間の女のそれに似ている。
「何なんだあれは!」
と袋小路。腰を抜かせてじりじりと後ずさる。
「考えずに逃げろ! 人間の学童ども!」
異形の女が吠えた。
「その声は!」
千児は二度目の驚愕のおかげで、漏らしかけた小便を漏らさずに済んだ。
「おまえ、いつかの鬼伽姫!?」
「いつだってアタシは鬼伽姫だ、バーロー!」
そう言いながら鬼は恐ろしい早さで接近して千児の首を掴むと、乱暴に昇降口に向けて放り投げた。千児は階段寸前のところで背中を打って呻いた。
「いってェ!」

そして再びの衝撃音。千児と鬼伽姫のあいだに、天から炎の雨が降り注いで、互いの姿を見えなくした。千児は思わず、姫、と叫ぼうとしたが、恐怖で喉が締まって声が出なかった。一方。
「た、助けて」
と呟いたのは隙山大平である。彼は今、昇降口から若干7メートルの位置にいる。這って逃げようにも臀筋の痛みと散らばったエロ本のために、彼の身体はなかなか前進しない。しかも書籍はチリチリと燃え出しつつある。顔面蒼白の袋小路は、ふらつく中腰姿勢のままそんな大平の腕を掴むと、助け起こすのは無理と判断し、乱暴に引きずろうとした。大平は痛みで呻く。しかし、俺に構わず行け、とは言わない。代わりに叫んだのは姫である。
「バカヤロー、早く行け!」
炎の雨が一旦止むと、千児はそんな姫の怒号が聞こえたことに半ばほっとしつつ、見えざる敵の存在に半ばぞっとしながら、袋小路と大平を視認。その遠さに青ざめる。
「は、早くしろい優等生。先輩も早く」
昇降口の影でガチガチと歯を鳴らしながら、千児は二人を呼んだ。
「助けてくれー!」
と二人から返ってきた。助けたいのはやまやまだったが、相手は妖怪。出て行ったところで敵うはずもない。千児は涙をのんで叫んだ。
「すまねえ! あ、足がすくんで動けねえ!」

そんな彼らをあざ笑うかのように、天から高笑いが響いた。少女の高笑い。人間のそれよりもほんのわずか、音調のずれた妖の響きをもった声だ。千児は見た。恐ろしい戦闘だ。群青色の装束が軽やかに空を舞う。それを狙うのは赤い鬼の娘。地上から斬りかかるも回避される。青い妖は手すりの上にふわりと着地すると、真白な指をすり合わせ、邪悪な爪を研ぎ合わせると、赤鬼に向けてひと振り。爆炎とともに空が裂け、タイルが風にえぐり取られる。赤鬼の娘は跳ね飛ばされ、うまく着地することができずにコンクリートの上に転がされ、燻る衣の煙にむせ返る。そして、第二陣を喰らう。

「くくく」
と青装束が笑った。ヤバイ、と千児は思った。これヤバイやつだ、と。鬼伽姫でも勝てないとなると、もはや紅鬼の父を呼ぶしかない。しかし、その術はない。新入社員に問い合わせ先さえ教えぬところからして、『モーテル鬼ヶ島』はいかにもブラック企業である。
「人間が3匹か」
夢見るように青い衣をはためかせながら、少女の声はそう言った。見れば靡く髪と同じ漆黒の美しい目をしていた。その眼差しの冷たさに、万千児は、死を覚悟した。隙山大平は、夢かと疑った。袋小路譲は、恋をした。3人それぞれの理由から、逃げるでもなく、挑むでもなくふらりと突っ立ったまま、こちらを見据える青い鬼の少女に魅入っていた。

「さあ、こっちに来るがいい」
鬼は案外優しい声で言った。千児は動かなかった。大平は動けなかった。しかし、譲は動いた。ふらふらと。吸い寄せられるように。
「くくく、おまえたちの肉は、これまた一段と柔らかそうだ」
囁くように言うと突然意地悪そうな顔をして、青鬼は自分の尖った歯を指差すと、くっくと喉の奥で笑った。小悪魔のようなその白い顔を、袋小路譲はぼうっと見つめていた。また一歩。また一歩近づく度に彼自身それが何なのかよくわからない、喜びの情が増していった。これが恋か。これがフォーリンラブか。靄のかかった頭の中でそう思った。
「い、行くな、袋小路ぃ!」
「お、おれを見捨てんな、ゆずるぅぅぅ!」
二人の高校生の叫びも空しく、袋小路譲の目はついに覚めなかった。あわやと思われたその時、ひとつの影が青鬼の前に過ぎった。
「ガルルッ」
と吠えた赤鬼の娘。ついに鬼伽姫がまとわる炎を脱し、再び青鬼に猛進した。
「さっきはよくもォ!」
しかし、かわされる。
「おのれちょこまかとォ!」
二度、三度、ふわりと回避され、赤い鬼の怒りはオーバーヒートする。
「よけてばっかの卑怯者がァ!」

左右からの絶え間無い切りかかり。唐突な大跳躍と蹴り込み。ことごとくかわされるも、まさしく鬼そのものの覇気を帯びていた。しかし、明らかに動きに無駄が多い。そして、少なからず疲弊の色が見え始めていた。それを見透かしたように青鬼は笑うと、
「すまぬな。もう姉上の爪には飽きてしまった」
などと落ち着いた声で呟く。その直後、姫の髪の毛を掴んで引き寄せ、背後から羽交い絞めにすると、
「さようなら姉上」
というが早いか、一気にその身体を締め上げてから、地面を蹴って跳躍し、空中で相手を放り捨てる。墜落した姫はそのまま起き上がらない。壮絶な戦いは、こうまであっけなく幕を閉じた。千児は驚きで口をパクつかせながら、つづいて襲ってきたあまりの絶望感のために、ついに0.1デシリットルくらいの小便を漏らした。

「あー、満足した。それじゃあ、また会う日まで」
姿が消え失せる寸前に青鬼が残した、そのふざけた調子の捨て台詞がなければ、千児がこんなに早く我に返ることはなかっただろう。青鬼の娘が去ると、燻る火の粉もたちまちに消え去った。呆然と空を見上げている袋小路やもはや地を這うことさえやめてしまった大平の横を素通りすると、彼は急いで姫のもとに駆け寄った。
「大丈夫か!」
ヒーロー登場のような調子で大きな声で言ってから、こそこそと隠れ見ていた自分の身の上を思い出して恥ずかしくなり、今度は少し小さな声で言い直した。
「だ、大丈夫か……?」
「バカが」
ゆっくりと目を開いて、姫は答えた。
「私のこの皮膚はな、地獄の業火でさえ……八幡製鉄所の溶鉱炉だって、通用しないくらい頑丈なんだ。このくらい……」
そう言ってから、小さく呻いた。
「おい! どうした!」
様子がおかしい。あれだけの攻撃を喰らっても気丈な様子だったが、ひとつ呻いたきり、黙ったままだ。思わず助け起こそうとして、千児は驚いた。彼女の額には角もなく、肌も人間のそれと変わらない。さらには以前人間に擬態していた時のような様子さえも通り越して、荒々しいオーラさえたちまち消え去り、今目の前にいるのは、以前よりもはるかに線の細い、意識不明の、千児と同じかやや高いくらいの背丈の、人間の少女だった。

「おい! しっかりしろ!」
千児はもはや迷わず彼女を抱き起こし、力を振り絞って背負い上げると、ひとまず目指すは保健室と決めた。足を震わせながら一歩一歩進んでいく彼の隣で、惨めな格好のまま中途半端に左手を挙手して、隙山大平はぼそりと言った。
「……千児、俺も……」
「後っす!」
懸命に地を這った結果、とうとう尻を天につき出すような形で動かなくなった大平を無視し、千児は自分を二度ならず三度助けてくれたこの少女を助けることを選んだ。袋小路譲がここでやっと我に返り、
「僕も手伝う。ひとまず人命救助が最優先だ」
と言って、千児に腕を貸そうとしたが、
「い、いいよ、この娘は俺が運ぶ。譲は先輩を」
そう言って、千児は階段へと急いだ。しかし、そこに到達する前に足がもつれた。鬼の娘は実に重かった。そして、彼には体力がなかった。ああやっと恩返しらしいことができるぞ、というピュアな感慨も束の間、彼はとうとうへたり込み、やっぱ無理だったわ、所詮おれはおれだったわ、という卑屈な気持ちで低く呻いた。と、その時だ。

「ちょいと、あんた、これは一体どういうことよ!」
突然響いたオネエ声に千児は空を見上げた。円形のシルエットが急速接近してくる。あれは何だ、と目をこらす。千児はぎょっとなった。……傘だ。いつか見た怪物だ。唐傘の外見を備えた、モーテル鬼ヶ島の従業員のひとりである。
「ああ、ああ、一体お嬢さんに何があったというの! お嬢さんの身に何かあっては、赤鬼のオーナーがブチ切れちゃうんだから! 何が、一体、何が!」
「おれが聞きてえよ! 唐傘めぇ、一足遅く駆けつけやがってよぅ」
呆気にとられている大平と譲を無視して、傘のお化けは恐ろしい速さで鬼伽姫の着物の襟に持ち手を引っ掛けると、姫を持ち上げ、ぽんぽんと飛んで、そのまま屋上を飛び降りた。千児が仰天しておろおろしていると、遠いところから声がわあんと響いてきた。
「ヘタレてないで早くおいでェ! 保健室よ、保健室!」